2009年12月17日

瀬戸内海

瀬戸内海(せとないかい Seto Inland Sea)とは、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、香川県、愛媛県、徳島県、福岡県、大分県がそれぞれ海岸線をもつ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている。「せとないかい」という呼称は「瀬戸内」の「海」ではなく「瀬戸」の「内海」であるからである。

古来から、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。 気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。
東西に450km、南北に15 - 55km、平均水深:37.3m、最大水深:105mの内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、医師であり博物学者であったシーボルトを初めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen,1833年 - 1905年)の旅行記により世界中に紹介され、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である。

弓道
バーベキュー
白血病
応用数学
キンボール
計算化学
アパレル
光学
就学前教育
振付師
また瀬戸内海は古来、豊かな生態系を持つことで知られ、現在でも天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリなどの海洋生物や、 アユ、ホホジロザメを初めとする400 - 500種類を越す魚類が生息している。また現在の状況からは想像しがたいが、瀬戸内海はかつてクジラの一大生息地でもあった。コククジラやセミクジラなどが多かったとされる。これらのクジラは捕鯨と汚染により瀬戸内海からはほぼ消え去ったが、他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。

瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘や播磨灘、豊後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。

2009年12月01日

集団による狩猟

アフリカ熱帯雨林に暮らす人々や、日本における銃を用いた大型獣の狩猟などは、集団によって行われる。日本のシカやイノシシ猟を例にとると、グループの中で獲物を追い立てる役と、獲物の逃げ道沿いに待ち伏せをして銃を構えている役とに別れて狩猟する。熊を狩るときも集団を組むのは基本である。特に羆は一人で狩るのは無謀である。なぜなら、羆は狩られることが分かっているため、待ち伏せをして襲撃して来る為、一人で狩るのは自殺行為に近い。

このように集団で捕った獲物は、狩猟の参加者あるいは村落全体で配分されるという事例が、日本においても、サン人、ムブティ族などアフリカにおいてもみられる。

スキー
ラフティング
鳥インフルエンザ
化学工学
パルクール
結膜炎
御節料理
ホームシアター
日本画
エンジニアリング
銃弾による水鳥の鉛汚染
現代の狩猟で鳥類を捕獲する場合は、主に散弾銃を用いて行う。この実包の中には鉛でできた散弾が多数封入されている。鳥類には砂のうに小さな土石の粒を蓄える種があり、それらが土や小石等と一緒に散弾をついばむことで体内に鉛をためてしまうことにつながり、鉛中毒で死に至る。この問題は水辺に放出された鉛散弾を水鳥が摂取することで発生する。陸鳥が鉛散弾を摂取して中毒となった例は報告がない。
対応として、散弾の素材を鉛以外の金属(スチール・ビスマス・錫・タングステンポリマー等)を用いた散弾実包が製造されている。また、その使用義務が日本国内でも一部地域にある。しかし既に水辺に放出された鉛散弾が深く沈下するまでには数十年かかるため、水鳥鉛中毒の発生は徐々にしか減少しないと考えられている。

2009年11月27日

初期の魚雷は

初期の魚雷は制御装置を持たなかったため、潮流や波の影響を受けやすく、目的の方向に真っ直ぐ進むことすらままならなかった。航走距離が短かったこともあるが、命中させるためにはできる限り目標に接近して発射することが要求された。

第一次世界大戦の頃になると、深度、速度、進路の調整を可能にする装置が開発された。これにより命中精度が向上するとともに、標的に対して放射線状に複数の魚雷を発射することや、航行する遠距離の艦船も攻撃目標とすることなどが可能になった。
就学前教育
振付師
包装
予備校
北海道
ブレイクダンス
投資信託
学習塾
フライングディスク
アルツハイマー病

深度調整装置
常に一定の深度を保たせるための装置。浅過ぎれば波の影響を受けるし、深すぎると敵艦の下を通り抜けてしまう。
速度調整装置
速度が常に一定になるように調整する装置。何秒で何メートル進むか正確に設定できるようになり、航行する標的に対し魚雷の未来位置を予定立てて発射することが可能になった。
自動操舵装置
ジャイロコンパスと連動しており、発射前にジャイロコンパスに方位を設定しておくと、魚雷が外乱によって進行方向がずれてもコンパスが指示する方向へ向かうように自動的に舵を切って制御することで直進が出来るようになった。

2009年11月13日

承久の乱や文永・弘安の役などの戦が

承久の乱や文永・弘安の役などの戦が増えた鎌倉時代には、武勲を上げる武士にとって絶好の機会が増えた。そのため自己を証明したり、手柄の確認、また敵味方の区別が必要になり、幔幕や旗、馬標や刀の鞘などありとあらゆる場所に描かれた。一種の名刺代わりで、自分の名前を示すために用いらざるを得なかった家紋が武士の間で増えた。また当時や日本古来の武家社会においては、勲功を立てることはすなわち自分が属する家(イエ)に貢献することに繋がったことも影響している。

鎌倉時代に入ってから武家社会では急速に広まった家紋であったが、公家社会においては武士のように名を上げるために家紋を敢えて使用する必要はなかった。室町時代に入る頃にはほとんど廃れてしまう。元来、ある特定の家を識別するために紋章を使用するという発想そのものが武家出自の考えかたであり、そもそも家格や名字には因習的な力や歴史があった。そのため、公家の家紋は武家にならって「作られた伝統」の側面も強い。
真央のかわいい靴
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生活をバックアップする情報
西遊記
青春の喜び
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室町時代
南北朝時代に入る頃には、「大紋」といった直垂に家紋が縫いつけられた衣服が武士の間で普及する。室町頃から、紋章を付けた衣服のことを礼服と呼ばれるようになるが、礼服につける紋章には必ず家紋をつけるという発想や考えはまだ一般化してなかった。その考えが定着し始めたのは、大紋から発展した「素襖」や「肩衣」といった衣服が出始めた室町時代に入った中期の東山時代頃だと言われる。同じ頃、羽織が生まれた。また同じ家族、名字を持つ者同士が家紋を共有し合っていたが、室町時代に突入すると同族同士で戦い合うことも増えた。同じ家紋を使用すると敵・仲間の区別をしづらくなる不都合を解消するため、このころから急激に家紋の種類が増え始めた。

2009年11月02日

ギャップレス避雷器

ギャップレス避雷器
放電電極を持たないものをいう。酸化亜鉛粉末の焼結体は電力系統用として優れた諸特性を持つことから、送配電系統に用いる避雷器の多くが今日、酸化亜鉛粉末の焼結体を用いたギャップレス避雷器となっている。また、ABD、TSSの電圧-電流特性はさらに理想的なものに近く、応答遅れが極めて小さい長所を活かすため、これらを用いたものも通常、ギャップレス避雷器となっている。しかしいずれも静電容量が大きいことから、通常、高周波回路には用いられない。
電圧スイッチング型避雷器
サージ電圧に応答し、電極間のインピーダンスが急激に低下するもの。これに用いられるサージ防護素子は上述のものであればGDT及びTSSである。
電圧制限型避雷器
サージ電圧およびサージ電流の増加に従い、電極間のインピーダンスが連続的に低下するもの。これに用いられるサージ防護素子は上述のものであればMOVおよびABDである。
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複合型避雷器
電圧スイッチング型及び電圧制限型の両方のサージ防護素子を内部に持ち、両方の特性を有するもの。上述のギャップ式避雷器はこれに相当する。
サージ防護素子はサージを処理する度に劣化が進み、最終的に消耗故障する。(GDTは最終的に開放故障、MOVなどは短絡故障する。)そこで通常、避雷器はその消耗故障の状態を表示、もしくは切り離す回路と組み合わせて構成される。避雷器に内蔵する場合と、外部に置く場合がある。

2009年10月23日

学士

学士(がくし)は、「学問を行う者」を原義とする語で、次のような多様な意味がある。

現在の学位の1つ。博士の学位、修士の学位および専門職学位に準ずる。この項目で解説する。学士の学位は「学士(専攻分野)」と表記される。通称して学士号といわれる。学士に準ずる学位として短期大学士、準ずる称号として準学士がある。
前項の「学士の学位」前身は、「学士の称号」であった。専攻分野ごとに定められた固有の学士の称号を付与した。(例)法学…法学士、経営学…経営学士。1991年の学校教育法および学位規則の改正により、学士に関する規定が改められ、現行の学位となる。なお、従前の制度において授与された学士の称号は1991年以降、学位と看做されることとなった。
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学問を専門とする人のことを学士という。いわゆる学者。ただし、肩書きや称号を意味するものではない。
日本の律令制下において皇太子に経書の講義をした教官を東宮学士という。位階は従五位下に相当する。
名誉学位のひとつ。名誉学士。
いわゆる、市民カレッジなどで、学位ではない称号として市民学士の称号が授与されるケースもある。
文部科学省におかれる特別の機関「日本学士院」の名称としても用いられる。また、日本学士院賞の名称にも使われている。

2009年06月22日

自己の概念に重大な帰結をもたらす

心の哲学はまた、自己の概念に重大な帰結をもたらす。これまで我々は「自己」「私」といった概念で本質的で不変的な人間の《核心部分》を指してきたが、最近になって心の哲学者たちは、自己のようなものは存在しないと断言している。[70] 普遍的で本質的な核心部分としての自己という考えは、デカルトの非物質的魂という考えから引き出されている。物理主義的な哲学者のスタンスと、ヒュームが行った自己という概念への懐疑が哲学者たちに広く受け入れられていることもあって、非物質的な魂といった考えは、最近の哲学者たちには受け入れられない。ヒュームは、彼自身が何か行うこと、考えること、感じることを捕まえることができなかったのである。[71] しかし、発達心理学や発達生物学、神経科学から得られた経験的成果に照らしてみると、本質的でかつ非連続的で物質的な《核心部分》、すなわちシナプスの結合という変化するパターン上にばらまかれた統合的表象システムといったものは、妥当なものであると言えそうである
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
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相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

ジョン・サール 生物学的自然主義を唱え、意識の物質への因果的な還元は可能であるとしながらも、存在論的な還元は不可能であるとを主張する。
ダニエル・デネット
ポール・チャーチランド 消去主義的唯物論を唱え、素朴心理学の概念は、やがて神経科学の概念によって全て置き換えられるだろう、と主張する。
デイヴィッド・チャーマーズ - 心の哲学者チャーマーズ(現在オーストラリア国立大学哲学教授)は、現代の物理学を拡張し、クオリアを一つの実体(英:entity)として扱うことの必要性を訴える。また意識のハードプロブレムの提唱者。チャーマーズ自身はハード・プロブレムは現代の物理学の範囲内では解決不可能だとしている。心身問題への解答、つまりチャーマーズ自身が言うところの精神物理法則のありかたは、機能主義的なアプローチによって解決されるはずだと主張している

2009年06月05日

中世ヨーロッパの3身分

中世ヨーロッパにおいては、

祈る人(聖職者)
戦う人(戦士)
耕す人(農民)
に身分を分ける考え方が浸透した。戦士身分は騎士とよばれたが、国王をはじめとする高位の貴族も広義においては戦う人、すなわち騎士に含まれる。祈る人もまた封建領主であり、人びとを3身分に分ける考え方はフランス革命前の身分別議会である三部会にまで引き継がれた。

イギリスでは、貴族からではなく国王から直接封土を授かった者(テナント・イン・チーフ)のうち、とくに大きな所領を持ち有力なバロンズ(barons)を諸侯と訳している。
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フランスでは、もともとはフランク王国のカール大帝の時代に設けられた地方長官「伯」(ラテン語:comes、フランス語:comte)が、やがて世襲化し、自立化して領域支配をおこない、ラテン語でプリンキペス(principes)と称した。これを諸侯と呼んでいる。フランスでは諸侯のうち有力な者が、公(duc)や侯(marquis)を名乗るようになる。

ドイツにおいては、「伯」(ラテン語:comes、ドイツ語:Graf)のうち、大きな領域を世襲支配し、権限の強かった辺境伯(Markgraf)はじめ、宮中伯(Pfalzgraf)、方伯(Landgraf)や城伯(Burggraf)、大公(ラテン語:dux、ドイツ語:Herzog)などの神聖ローマ皇帝の権力に直属した上級貴族と、大司教や修道院長で、所領を皇帝から直接封土として与えられている諸侯(聖界諸侯)を合わせ、12世紀頃に帝国諸侯(ラテン語:principes imperii、ドイツ語:Reichsfürst)と呼ばれるようになった。

2009年05月01日

翻弄される養子人生

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げる。天正18年(1590年)の小田原合戦、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加した。

しかし天正17年(1589年)、秀吉に豊臣鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため養子の秀康は、天正18年(1590年)に下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領11万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗ることとなる(なお、慶長3年(1598年)頃の文書には「結城秀朝」という名乗りも使っているが[要出典]、短期間で元の「秀康」に戻している)。改めて称号として、羽柴姓を贈られ、官位から結城少将と呼ばれた。

秀吉死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西に引き返すことを決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康には家康らが西に引き返す間、上杉景勝を牽制するという留守居の役目が与えられた。武勇に自信があった秀康は、凡庸と評判される弟の秀忠が大軍を率いて西上する大役を与えられたことに不満を覚え、家康に自らも西に向かう軍勢に加えて欲しいと嘆願するが、にべもなく拒絶されたと言う。

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関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩10万1,000石から越前北庄67万石に加増移封された(戦後の論功行賞にて、徳川一門を含めた諸侯の中で唯一50万石を超える加封を受けている。ちなみに第二位は関ヶ原の戦場に在陣した異母弟松平忠吉であり、48万石増の尾張清洲52万石に移封されている)。慶長9年(1604年)には松平氏の姓に復することも赦されている(ただし、秀康本人は一生「結城」のままで通したといわれる。後述)。しかし梅毒を患っていたため、慶長12年(1607年)に死去。享年34。後を嫡男の忠直が継いだ。

2009年04月17日

レユニオン

レユニオン(Réunion)はフランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン)である。マダガスカル島東方のインド洋上に位置する。面積2,512平方キロ、人口720,294人。コーヒーの原種の一つブルボン種の原産地とされる。県都はサン=ドニ。

1507年 ポルトガル人がこの無人島を「発見」。
1640年 フランス人が上陸してフランス領と宣言。
1642年 ルイ13世によってブルボン島と命名されたが、ブルボン王家を打倒したフランス革命によってラ・レユニオン(La Réunion)と改名された。その後、1806年に皇帝に媚を売った提督によって「ボナパルト」島、イギリス占領時(1814)に「ブルボン」島、1848年に「レユニオン」島と、呼称が何度も変わった。
1665年 フランス東インド会社はインドへの中継港として重視し、植民を開始。最初はコーヒ栽培(後に失敗),そして砂糖栽培が重要産業となる。
1869年 スエズ運河が開通するとインド方面への中継港としての役割は減少した。
1946年 フランスの海外県となる。
1952年 3月15日から3月16日にかけて世界最多24時間降水量の1870mmを記録
2002年 ユーロ流通。時差の関係で、現地時間2002年1月1日午前0時少し過ぎに、県都サン=ドニのルネ=ポール・ヴィクトリア市長が、市庁舎前の式典会場に設えられた屋台でライチ1キログラムを0.76ユーロで買ったのが、現金による世界初のユーロ使用と(公式には)されている。しかし現地の噂では、それより数分前(2001年12月31日午後11時57分という説がある)に一人のクレオル人男性がATMから20ユーロ紙幣を1枚引き出すことに成功したと言われている。
2003年 海外レジオン設置に伴い、「レユニオン海外県ならびに海外レジオン」になる。
レユニオン島の人の移動と経済関連年表
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ インド洋域に入る
1502年 ポルトラーノ海図にDina Margabim 或いはDiva Morgabimの名で登場。パーリ語dipa「島」とアラビア語「西の」の混成語。
1507年 ポルトガルのトリスタン・ダ・クーニャが接岸し、Santa-Appoloniaと命名。これは発見された2月9日が聖アポローニアの記念日であったため。
1513年 ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが「公式に」発見。彼の名はマスカレン(仏語ではマスカレーニュ)諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)に残っている。その後、オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師などが相次いで接岸
1638年 インドに向かっていたSaint-Alexis号がルイ13世の名において占有を宣言
1640年 Saint-Alexis号艦長が「公式」に領有を宣言(Bourbonと命名)
1646年 マダガスカルの反乱分子12人がブルボン島に流刑
1654年 マダガスカルの反乱分子(フランス人8人、マダガスカル人6人)がブルボン島に流刑
1663年 フランス人2人が10人のマダガスカル人(男7人、女3人)と2年滞在
1665年 フランス人20人入植
1668年 サトウキビがマダガスカルよりもたらされる
1671年 人口76人:白人36人、マダガスカル人37人、混血の子供3人
1674年 人口130人:奴隷75人
1686年 最初の人口調査。総人口約300人:フランス人、ポルトガル系インド人、アフリカ、マダガスカル、オランダ10家族がフランス人夫婦より、12家族がフランス男性とインドーポルトガル女性、14家族がフランス男性とマダガスカル女性から
1689年 奴隷人口102人、自由民212人
1700年 人口700人、うち320人が黒人
1709年 奴隷人口384人、自由民492人
1711年 自生のコーヒーが発見される
1714年 奴隷人口534人、自由民623人
1718年 イエメンのモカからコーヒーがもたらされる
1735年 奴隷人口6573人、自由民1716人
1749年 コーヒー苗が虫害によって荒らされ始める
1750年 奴隷人口11893人、自由民2834人
1763年 奴隷人口15419人、自由民4267人
1779年 奴隷人口30209人(うち白人6464人)、自由民6929人
1788年 人口45000人:奴隷33377人(うち白人8812人)、解放奴隷1029人
1789年 奴隷人口42588人、自由民9211人
1791年 ハイチ革命(サトウキビ経済の崩壊)
1793年 国民公会により島名レユニオン
1794年 国民公会奴隷制廃止宣言
1802年 ナポレオンにより奴隷制復活
1804年 奴隷人口50350人
1806年 翌年にかけて大型サイクロン来襲。島名ボナパルト
1810年 英国の統治下に入る。白人12725人、解放奴隷2840人、奴隷52141人
1814年 島名ブルボン
1815年 フランスに返還。最初の製糖工場(小屋)
1817年 最初の蒸気粉砕機導入。奴隷売買禁止令。非合法売買で1831年までに奴隷約45000人輸入
1820年 粉砕機数91。1820年-1825年の砂糖生産量は4500t以下。人口71703人:奴隷51213人、解放奴隷4710人、白人15780人
1821年 粉砕機数135。
1823年 粉砕器数168。サトウキビ耕作面積48000ha
1826年 人口87100人:奴隷60698人
1829年 インド人契約労働者が続く3年間で3000人移入
1830年 蒸気粉砕機数84。白人と白人系混血30000人、奴隷70000人
1832年 続く3年間で奴隷45000人輸入
1835年 奴隷人口70406人
1840年 奴隷人口66100人。製糖工場数140
1848年 奴隷人口62151人、12月奴隷制廃止。島名レユニオン
1849年 契約労働者数12032人(インド11309人、中国644人、アフリカ379人)
1850年 続く10年間でインド人労働者約60000人
1852年 外国人契約労働者16585人、解放奴隷15483人
1858年 製糖工場数127
1859年 契約労働者数64403人(アフリカとマダガスカル合わせて26784人)。アフリカ人移住禁止令
1860年 砂糖生産量73000t。サトウキビ耕作面積62000ha。製糖工場数121
1865年 砂糖生産量48000tに激減。インド・アフリカ移民74500人。44000人の解放奴隷が契約労働に移行せず
1869年 スエズ運河開通
1870年 人口21万人。うち中国系1180人。
1881年 人口17万2000人。砂糖生産量2000t。
1882年 粉砕機数168。インド人移住禁止令。契約労働者数46426人
1885年 最後のインド人契約労働者移住(男22人、女12人)。人口16万3000人
1887年 モザンビークから2000人以上の契約労働者移住。
1889年 島で生まれた移民の子へのフランス国籍付与
1901年 中国人契約労働者受812人移住。人口173315人
1904年 製糖工場数36
1911年 人口173293人:インド人ムスリム584人、中国人844人(うち女33人)
1914年-1918年 砂糖生産量37000t
1927年 移民受け入れ再開。マダガスカルより3000人。
1931年 人口197933人、うちフランス国籍192566人
1940年 砂糖生産量110000t
1946年 海外県化
1956年 製糖工場数13
1988年 製糖工場数4
2001年 製糖工場数2
レユニオン島はマダガスカル島から800Kmの東に位置している(東経55度30分、南緯21度)。面積2,512K㎡の大きな火山島で、島のほぼ中央にある、最高峰のピトン・デ・ネージュ山(死火山)は標高3069mもあり、島の南東部にも標高2631mのピトン・ドゥ・ラ・フルネーズ山(活火山)がある。そのためにレユニオンは火山学者のメッカとなっている。地震学者安芸敬一も現地の観測所で研究を行っていた。山岳地勢のため、住民の大半は海岸部で暮らしている。

経済 [編集]
主要記事:Economy of Réunion
主要作物はサトウキビで、他にはラム酒、キャッサバ、バニラなどである。観光産業も有望である。

人口動勢 [編集]
主要記事:Demographics of Réunion
住民は黒人と白人の混血であるクレオールがほとんどで、64%を占め、印僑は28%を占める。残りは少数派のヨーロッパ人や華人などである。貧しいクレオールと、豊かなインド人及びヨーロッパ人との間で経済的格差などで対立しており、1991年には深刻な暴動が起きた。

言葉は公用語がフランス語だが、一般的にはフランス語を母体にしたレユニオン・クレオール語を話す。

宗教はカトリックが89%を占める。残りはイスラム教(ほとんどがインド・グジャラートからの移民)やヒンドゥー教などである。なお、サン=ドニ市のモスクは1905年に建てられた、フランスで最も古いモスクである。

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